Depot No.101 [1995.11.23] 極地方式研究会

はじめに|レポート題名/報告者等一覧|紙作り|大気圧を見る|生物のつながり/重さ|
|参加者の感想とレポーターからのコメント|Editor N.への手紙とEditor N.のことば|

紙作り


Editor N.:

「紙作り」について、菊池明さんと、大西秀夫さんとからコメントをいただいた。

菊池さんへは、

(4)大西さんとだいぶ意見を交換されていたようですが、彼との違いはなんですか。また、議論はかみ合いましたか。それで、得たことがありましたか。

というコメントをお願いをした。【レポート題名/報告者一覧】を見るとわかるように菊池さんは、今集会で「紙作り」をレポートしてはいない。しかし、紙作りを実演していた。集会での「紙作り」のレポートは大西さんで、それは「いたって簡単な“野草紙”作り」というものである。わたしは、これまで「紙作り」を実践し、レポートしてきた菊池さんが、大西レポートに何も言わないはずはない、と考えた。それが、上記の「大西さんとだいぶ意見を交換されていたようですが‥‥‥」である。

 そして、その大西さんへも、菊池さんへと同様に

(4)菊池さんとだいぶ意見を交換されていたようですが、彼との違いはなんですか。また、議論はかみ合いましたか。それで、得たことがありましたか。

とたずね、コメントをお願いした。

 送られてきた菊池さんからのコメントは、次のようである。

(4)紙漉きで、大西さんとの違いなのですが

 「何でも紙にしてみよう」という点では同じなのですが、大きく違うことは、作った紙を実用するのかどうかということだと思います。そういう点で、議論の接点はなかったと思います。私が作った紙の種類はまだ少ないので、大西さんの「紙」は羨ましいのもありました。「これは、象のうんこで作ったはがきです」と注のついた手紙をだしたいと思っています。子どもたちにも体験させたいと思っているのですが。

 いっぽう、大西さんからのコメントは次の<「野草紙作り」を提案する>である。

 この大西コメントで、<知久馬・菊池論争>なるものの存在を知った。そこで、知久馬さんに大西コメントを送って、次のお願いをした。(既述したように、「菊池レポート」というのは、ない。わたしのまちがいである)

  1. 大山集会での「知久馬さんの議論」を、お聞かせください。
  2. こんどの金沢集会での「大西レポート」と「菊池レポート」について、および、あまりなかったというのですが、もしお気づきの議論があったら、それについて、考えをお聞かせください。
  3. 同封の「『野草紙作り』を提案する」についての御意見をお聞かせください。

 依頼に応じて、知久馬さんは、かなり詳しいコメント<「紙作り」は何のためにするのか>を書き、送ってくれた。

 この知久馬コメントには、知久馬さんの考える「紙作り」のねらいと、これまであった「論争のようなもの」の「争点」と「一致点」が、よく整理して、記述してあって、大西提案・実践の理解を、おおいに助けてくれる。

 そこで、知久馬コメントは、今回の、金沢集会そのもののコメントではないが、ここに載せることにした。

 また、大西レポートは、そう長いものではないし、おもしろいと思ったので、それに<やってみようと思う人>に役立つと思われるので、あわせて掲載する。


「野草紙作り」を提案する

大西 秀夫

 今夏の金沢集会で,ボクは「いたって簡単な『野草紙』作り」を提案した。提案に込める願いは限りなくあったのだが,時間に制約があって十分な議論にまでは至らなかった。紙作りについては,あれやこれやと思うところがあるので,当日のことも含めて少しばかり書き留めておきたい。

 野草紙作りにボクがこだわるのは,それなりの訳がある。それは10年も前に逆上るのだが、当時をまざまざとよみがえらせてくれたのが,昨夏の大山集会における”知久馬・菊地論争”である。ここでは,内容には立ち入らない。

 ただこれだけはっておきたい。菊地さんの職人的な腕は「すごい」としか言いようがないが,ボクは,紙作りの本質は「植物体から繊維を分離すること」にあるとする知久馬さんの論に共鳴する。植物と付き合うことこそが,理科の窓からみる紙作りの捨てきれない視点だと考える。菊地さんのは理科からの接近ではないだろうから,何ともいえないのだが,ボクはそこまで完成度の高い紙を作りたいとも思わない。そのあたりがきっと決定的な違いだろう。

 単に紙作りというなら,モノ作りの目,環境教育の目,理科教育の目等々,様々の目からの迫り方が考えられるだろう。そしてどれも否定できないは頭陀。それはちょうど口頭報告を命とずる「かわりだね・はしりもの」があり,記録主義の「自然のおたより」があるように。ともにそれぞれのねらいと意義があるわけである。

 だから,分科会で「東の菊地,西の大西だね」と言われとき,ボクは「まさに2つは違うんだな」と呟いていた。ボクの紙作りでは,「セルロース繊維を取り出す作業をとおして,植物体というものの一般性と個別性にふれさせる」ことが欠かせない。ここが菊地さんとの決定的な達いであろう。

 だからこそ,ボクは「もっと簡単に植物体から繊維が取り出せれば,子どもたちにもっと楽しく植物と付き合わせてやれるのに」と考えて,教材聞発を試みたわけなのだ。こうした事情をていねいに解説するには,時間がなさ過ぎた。そんな短い時間の中で,タケの繊維の取り出し方が伝えられたのは幸いだった。タイミングよく,会場のそばの竹薮にそれがあったのだ。一般の実践は,タケを煮ることに勢力を注ぎ過ぎて,ただの紙作り工作に終始しているように見える。ボクには不満である。

 結局,セルロース繊維がうまく取り出せさえすれば,簡単に紙が作れるのだ。まさに,そこがボクの紙作りの主長点である。アルカリであろうが,ミキサーであろうが,要するに繊維が取り出せればよいわけだ。柔らかい植物体なら,ミキサーで十分。

 ここまで来れば,「ノリも紙のうち」と思えてくる。製法は基本的には同じである。そんなつもりで,参加者にノリが紙と思えるかどうか問うた。ほとんどの方が紙という意見だった。しかし,そこまで読み取って,そう思っていらっしゃったかどうか,それはわからない。

 したがって,ボクの言いたい趣旨を参加者に理解していただけたとはとてもじゃないが,思えない。だって,先に書いたようにそんな明確な議論にはならなかったのだから。

 ボクは生活科での試みを念頭に置いている。さらには,5学年の伝統工芸(社会科)学習のひとつ,「和紙作り」の前段階での試行を構想している。

 前者では,草や花の汁遊び,またあぶり出し遊びで出てきた植物の粕を紙にする程度でもよい。植物そのものと仲よくする“すべ”として,重要なものだと思っている。

 後者の場合,社会科という範疇から飛び出して,総合科の色合いが出てくる。植物繊維との多くの出合いの末,和紙に適した材料にたどり着いた祖先の英知に思いが寄せられたら,ずばらしい。それ抜きの学習は,何かが抜けた感じがする。それはどうも,自然と人間との果てしない関わりの歴史,つまり繊維分離についての知恵の蓄積史である気がする。

 うれしいことに,生活科と社会科で,ボクの構想を試してくれる学校が2つ現れた。もちろん,趣旨を理解してくる教師がいたからである。生活科で取り上げる学校は,地元に和紙の産地をもち,卒業証書を手漉きしているところだ。この経験が高学年での和紙学習の素地になってほしい。両校の子どもたちは,この活動を歓迎してくれるだろうと思っている。

 いずれ報告したい。

【付記】

 ひとつ書き残したことがある。それは,分科会で菊地さんとやりとりした乾燥板の話である。

 ボクは,紙シートを乾かすにはベニヤ板で自然にやるのがいちばんいいと思っている。アイロンはまず使わない。使うと,波打った紙になるからだ。

 その点については2人は共通していたが,板の種類で一致しなかった。ボクは版画板か画板である。菊地さんは,それではうまくいかないと言う。もっと薄手で,表面がデコボコ気味のがいいらしい。実物があったので見たが,ボクにはなぜそれがいいのかわからなかった。帰って早速買って試した。しかし,うまくいかない。乾燥し始めると,シートが剥がれかかるのだ。

 まったく不思議だ。この点を解明したいと思っている。誰もがすぐにできて,満足感を味わえる紙作りこそ,ボクの目指すものだから。


「紙作り」は何のためにするのか

知久烏義朗

(1)「紙作リ」をめぐる争い:大山集会

 1995年度定期研究集会(金沢集会)で,神奈川の菊池明さんと兵庫の大西秀夫さんが「紙作り」をレポートされていたl)。両人の作られた紙は,種類の多さからいっても,出来の良さからいっても,いずれ劣らぬ立派なもので,居あわせた人々の眼を奪った。筆者も,内心大いに感心していた。しかし,「菊池さんの紙作り」と「大西さんの紙作り」には,大変な違いがあった。「紙作り」という工作をとおして実現しようとしていることの違いである。それにもかかわらず,居あわせた人々の多くが紙の「立派さ」(ここにこそ問題の一つがある)に眼を奪われていて,両人の紙作りの違いに内包されている大事な問題は見過ごされたままで終わってしまったのではないかと思う。両人の「違い」は,1993年度の定期研究集会(大山集会)で「菊地さんの立派な紙」と「筆者どもの不細工な紙」がたまたま出くわし2),そこで「論争のようなもの」が営まれたことに源を発している。筆者もその「論争のようなもの」に一枚噛んでいたので,ここで若干の考えを述べておきたい。大山集会で筆者がかかわった「論争のようなもの」は一時に行われたのではなく,三つの異なる場で断続的に行われた。かかわった人も,大西さん,菊池さんでさえ居たり居なかったりで,一定していないが,そこで問題となった「争点」と「一致点」を筆者なりに整理すると,次のようになる。

 争点は,三つあった。第一は,紙作りで何を大切にするか,という問題である。菊池さんは「実用に耐えられる本物の紙を作ること」と考え,筆者は「植物体から紙を作ることそれ自体」と考えていた。筆者の立場では,出来上がった「紙」が実用に耐えられるか否かはどうでもよいことであった。実際に,筆者どもの作ったニンジン紙やダイコン紙は,作り方の問題もあったが,「紙もどき」でしかなかった。植物には,紙にしやすいものもあれば,しにくいものもある。そこには植物の個性が反映されているし,紙を作るのに現在どの植物を使うようになっているかということに人間の行ってきた工夫の歴史が反映されてもいる。つまり,筆者は,子どもたちに「繊維があれば紙はできる」こと,しかし「紙にしやすい植物とそうでない植物がある」ことをわからせたいと考えていたのである。だから,仕上がる「紙」の出来がどのようなものであっても,「植物体から紙を作ること自体」が大切だったのである。

 「紙」の出来上がりにこだわるかどうかは,第二の争点を産み出した。それは,紙を作るときに出来合いの紙料(牛乳パックをときほぐしたもの)を援用するかどうか,という問題である。「植物体から紙を作ること自体」に筆者がこだわるようになった元々のきっかけは,環境問題がクローズアップされるなかで,牛乳パックを利用した葉書作りが小学校の授業に取り入れられるようになってきたことに対する苛立ちにある。紙作りの工程は,生産活動の基本図式である「天然の混合物→人為的均一物→製品」にきちんとあてはまって,「植物体→紙料→紙」となる。この工程のなかで最も手間がかかり,歴史的にも人類が一番苦労し,従って工夫も様々になされてきた,そして環境を最も汚染するのは,「天然の混合物→人為的均一物」の部分である。「牛乳パック→葉書」は,言ってみれば「紙料→紙」でしかなく,「植物体→紙料」の部分はすっぽり抜け落ちてしまっている。

 「牛乳パックからの紙作り」で筆者が怖いと思ったのは,実際の製紙工業で肝要な「植物体→紙料」の部分がすっぽり抜け落ちているにもかかわらず,紙としっかり付き合った気になれ,しかも自分は環境にもしっかり気を使って生活していると錯覚してしまいかねない点である。リサイクル活動の一つとして牛乳パックを集めることは結構なことであろうが,牛乳パックからの紙作りが義務学校の正課に組み込まれるとなると,話は別である。

 「生きる」ということは「選択をする」ということと同義であり,それは同時に「多くの可能性を棄てる」ということと同義である。民主主義というのは,その「速択の決定」すなわち「多くの可能性を棄てる決定」を生きる当人に最大限に保障しようとする体制である。それにもかかわらず,義務学校は,法的強制力をもって子どもたちの選択ないし棄却の自由をまったくと言ってよいほどに奪うことで成立している国家機関である。日本の学校では,教材を選択する余地は子どもたちにはまったくない。そして,公務員である義務学校の教師が「仕事」の名のもとに行うことは,法的には国家が行っているのと同じ意味を持つ。だから,義務学校以外ではできない「何か」があって,しかもその「何か」が実現されないと子どもたちを含めたすべての人間が困ってしまう,そういう「何か」を実現しようとするときにだけ,義務学校は民主主義と矛盾しないでいられる,と筆者は考えている3)。言い換えれば,義務学校以外でもできること,そして誰もがする必要のないことなら,義務学校でしてはいけない,と考えるべきではないかということである。「牛乳パックからの紙作り」が義務学校である小学校の正課としてやられたのでは,まったくかなわない。

 「紙料→紙」を否定したとき,紙作りで「植物体→紙料」の工程を抜かすことがないように気をつけるのは,必然である。だから,紙を作るときには「植物体から紙を作ること」が決定的に大事で,「牛乳パックや新聞から紙」では話にならない。

 ところが,この「植物体→紙料」がくせものなのである。この工程を実現する道具として水酸化ナトリウムを使う4)なら問題はないのだが,水酸化ナトリウムを使わないとなると,繊維が分解不十分なゴワゴワ状のままで,まともな紙料になってくれないのである。結果として,出来上がる「紙」も,髪の毛が絡んでいるとしか言いようのない「紙もどき」にしかならないのである。仕方ないので,おろし金ですり下ろしたり,裏ごししたり,糊で固めたりといろいろ工夫したのだが,大山集会で筆者どもが示した「紙」は,ついに冷笑の対象でしかなかった。

 菊池さんも,繊推のこのゴワゴワ状態には手を焼かれたようである。それでも「実用可能な紙を作る」ことを目標とされていた菊池さんは,牛乳パックを紙料として援用することに活路を見い出されたらしいのである。多くの場合,牛乳パックからの再生紙料を全体の30%ほど使って,紙を作っておられたと思う。仕上がった紙は,とても立派だったし,たしかに「これなら葉書として投函することもできるだろうな」と思えるものだった。居合わせた人たちが魅了されたのは,言うまでもない。筆者たちの「紙もどき」とは大違いである。しかし,筆者は同時に,「菊池さんの紙はまるで張り紙細工だな」とも,思わずにはいられなかった。つまり,使った植物によって程度の差はあっても,その紙の本体は牛乳パックからの再生紙料であり,その本体の上にゴワゴワ状の繊維のようなものが張り付いているとしか見えなかったし,その植物の役割も本体の飾りにすぎないと思えたのである。この点は,大西さんも同感されたようだった。

 上で述べた二つの争点は,より根源的な問題として,紙作りは何のための教材か,という問題につながっていかずにはおられなかった。これが,第三の争点である。上で書いたように,義務学校の授業では,誰もがしなければならず,しかも他ではできないこと以外はしてはいけない,と筆者は今のところ頑なに考えている。「牛乳パックからの葉書作り」は,学校でなくてもできることである。それは,誰もがしなければならないことではなく,したい人間がすればよいことである。「実用に耐えられる紙を作ること」に重点を置いた菊池さん式の紙作りも,同じではないのか。それは,「紙漉き職人養成学校」や「市民教室」の課業にはなっても,小学校の正課のための教材にはなりえないと考える。確かに,どちらの紙作りも,やっていて楽しいだろう。しかし,子どもが楽しければそれでいい,というものではない。筆者は,紙作りを授業で取り上げたかったし,そのためには,「繊維があれば紙はできる」という法則と「紙にしやすい植物とそうでない植物がある」という特殊条件とを学ばせる目的を持つことが必要ではないかと,その時点では考えていたのである。

 菊池さんと筆者の一致点は,植物体を紙料に加工するときに必要な水酸化ナトリウムは安全のために使わない,という点であった。どのような場であれ,子どもたちの活動を制約することは,最少にとどめられるべきである。そうでないと,学習は成立しない。ところが,子どもたちの自発的で主体的な活動を尊重しようとすると,水酸化ナトリウムは極めて剣呑である。

 実は,この一致点こそが争点の第一を産み出しているのである。水酸化ナトリウムを使わないでも立派な紙を作れるなら,紙作りで大切なのは「実用に耐えられる紙を作ること」か「植物体から紙を作ること自体」かという争点は,顕在化する余地がない。両者は両立できるからである。ところが,幸か不幸か,水酸化ナトリウムを使わないですませようとすると,ちっとやそっとでは繊維はゴワゴワ状のままで,まともな紙料にならない。必然として,紙としての立派さを目指せば,出来合いの紙料を援用した「張り紙細工」にならざるをえなかったし,植物体から取り出した繊維だけで作る「紙」を目指せば,不細工な「紙もどき」にならざるをえなかったのである。第二の争点が絡んできたことになる。そして,この事態が,さらに「紙作りは何のための教材か」という第三の争点につながって行ったことは,既に書いた。

 この第三の争点をどう解決するかは,第一,第二の争点を解決するための大前提である。既に書いたように,義務学校である小学校の授業では,誰もがする必要のないこと,他でもできることをするべきではない。いくら楽しくても,それで義務学校の「強制的な押しつけがましさ」が免罪されることはない。この点,「菊池さんの紙」の立派さに魅了されたフロアーの人々は,どう考えていたのだろうか。多くの人の意見を求めたわけではないが,「子どもが楽しめて,立派な紙ができればいいじゃないの」と明言した人が複数いたことは,事実である。

(2)その後の展開:磐司集会と金沢集会

 その後,菊池さんは「実用に耐えられる紙作り」路線を歩まれ,金沢集金に到った。「芸」は細かくなったが,紙作りに対する菊池さんのスタンスに本質的な変化はなかったと思う。ちょうど,「優れた零戦」の小改良が行われたようなものだと思った。しかし,菊池さん自身は小学校の正課として紙作りを取り上げる気はないようだったから,その限りにおいて,その路線はそれでいいと思っている。

 筆者の方はどうかというと,筆者たちの示した紙が大山集会であまりに不人気だったことに,改めて考えさせられた。仕上がった「紙」の出来などどうでもよいことだとは言っても,多くのフロアーが「菊池さんの紙」の虜になったことが瑞的に示しているように,本物らしさを備えるということは,やはり大事な条件であろう。子どもたちだって,本物らしい紙でないと魅力を感じないであろうし,やる気も出さないであろう。結局,実用可能かどうかはともかく,少なくとも「紙らしく見える紙」を実際に作れるようにならない限り,「植物体から紙を作ること自体」にこだわることは,捕らぬ狸の皮算用にすぎないと考えるようになった。

 それでも,何とか紙作りを授業のための教材として位置づけられないか,とは考えた。。それで,改めて着目しなおしたのは,「天然の混合物→人為的均一物→製品」という生産活動の基本的な図式である。筆者が紙作りを考えるときの原点だったこの図式は,生産活動にとって「分離」を行うということが大切な役割を果たすことを示している5)。もし紙作りが義務学校の正課として意味を持てるとしたら,それは,この「分離」という操作の意味を考える一つの場を提供することではないか,と考えた。

 こう考えたとき,水酸化ナトリウムの効力と危険さがそれまでとは違った意味を持ってきた。水酸化ナトリウムは,簡単には破壌できない頑丈な植物体を容易に破壊できる,分離のための強力な道具である。それは,たいそう強力だから,紙料を取り出すのに有効であると同時に,同じ有機物である人間の体をも簡単に破壊する危険物にもなる。そうなると,水酸化ナトリウムが,酸と似たような物質に思えてきた。水酸化ナトリウムを持ち,それを使えるというのは,我々人間にとってたいそう有り難いことではないのか。調べてみると,紙に限らず,石鹸だって,石油だって,化学繊維だって,我々にとって必要な多くのものが,水酸化ナトリウムなしには作れないということである。

 水酸化ナトリウムが有機物を強力に分解する働きを持つのは,今では当たり前のことかもしれないが,それは,人間が危険と抱き合わせに工夫を積み重ねることで歴史的に手に入れてきた大事な知識である。筆者は,子どもたち自身に工作をさせたいという点に眼を奪われたあげくに,水酸化ナトリウムの危険さだけに気を取られて,それを排除する方向で物を考えようとしていたから,袋小路に入り込んでしまったのである。しかし,水酸化ナトリウムを分離のための大事な遭具の一つだど考え,その働きと使い方を検討するための場として紙作りを考えると,話は違ってくる。その場合に大切になってくるのは,紙作りを子どもたち自身にさせることではなく,水酸化ナトリウムを使っだ場合と使わない場合の比較検討をとおして,水酸化ナトリウムの威力とそれによる分離燥作の実際を目撃,確認させることになってこよう。

 しかし,同時に,分離操作の学習なら別に水酸化ナトリウムを扱うことが最優先される必要もないであろうし,水酸化ナトリウムの働きを扱う場合だって,紙作りが最適の事例というわけでもないであろう。時間に余裕がある場合なら話は別だが,紙作りはどうしても正課で取り上げなければならない教材だとは考えにくい。それでも,仮に紙作りを取り上げる場合には,分離操作や水酸化ナトリウムの特性にしっかり着目させてこそ,取り上げた意味がある,とこんなふうに結論したのである6)

 ところが,大山集会での「論争のようなもの」に一枚時んでいた大西さんが,筆者の「繊維があれば紙はできる」「紙にしやすい植物とそうでない植物がある」に共感されたらしく,「植物体から取り出した繊維だけで紙を作る」路線で工夫を続けられたのである。大西さんが留意されたのは,水酸化ナトリウムを使わない安全で簡単な紙作り,だから子どもも自由にかかわれる紙作り,しかも「紙らしい紙」が出来上がる紙作り,ということだったと思う。そして,その方法を明らかにされたのである。その最初の成果は,1994年度の定期研究集会(磐司集会)で報告された7)が,大西さんの作られた「紙」は,実用に耐えられるかという点では「菊地さんの紙」に一歩ゆずるが,「紙らしい紙」に見えるかという点では,「菊池さんの紙」と比べて遜色はなかった。しかも,「大西さんの紙」は,100%植物体から分離した繊維だけで作られた紙だったのである。

 その方法は,水酸化ナトリウムの代わりに石鹸を叩解剤として使うというものだった。ここでその詳しい方法に触れることはやめるが,熊本で同じようにやってもうまく行かなかった。「どうしてか?」という遣り取りを大西さんとの間で何回か行い,石鹸だから使っている水の硬度のせいかもしれないという結論にとりあえずは落ち着いた。そのような遺り取りが影響を与えたのかは定かでないが,大西さんは,その後も繊維を取り出す方法の工夫を続けられて,結局,薬剤を使わないで100%植物体から分離した繊維だけで「紙らしい紙」を作ることに成功したのである。その成果が報告されたのが,金沢集会だったのである。その方法のポイントは,叩解と水洗いを操り返すことで不純物を徹底的に取り除こうとしている点にあると考えている。仕上がった紙は,磐司集会のそれと遜色ないものと思った。

 ここで特に気をつけておきたいのは,大西さんが「100%植物体から分離した繊維だけで紙を作ること」にこだわり続けている点である。なぜ大西さんがそれにこだわるのかは,彼が紙作りという工作を一様性と多様性を傭えた「植物の世界」を探検する場として位置づけていること8)から説明できる。その紙作りは,いろいろな植物と親しくなり,植物の世界をよりよく知るための手立てである。だから,瑞的な言い方をすれば,大西さんにとっての「紙作り」は,「はしりもの・かわりだね」と類似した機能を,異なる方法で果たそうとしたものだと言ってよいように思う。正直に白状すると,「繊維があれば紙はできる」「紙にしやすい植物とそうでない植物がある」と言っておきながら,大山集会の時点での筆者は,大西さんのように明快には,紙作りを植物の世界を探検する場として位置づけていなかった。その点で,紙作りという工作自体を重視しようとしていたのか,あるいはそれを通した科学概念の学習を重視しようとしていたのか,曖昧だったのである。そして,この曖昧さが,菊池さんとの論争を「論争のようなもの」にぼやかしてしまうことなったと,反省している。

 大西さんが新たに行った紙作りの位置づけは,作り上げられる紙が一見どれほど似ていようと,「実用に耐えられる紙作り」で一貫してきた「菊池さんの紙作り」とは,まるで違っている。そして,分離操作と水酸化ナトリウムの特性を確認するための場と考えてはどうかという筆者の位置づけとも,もちろん違う。大西さんは,新たなカテゴリーに属する教材として「紙作り」を提案してきたことになる。

(3)その後の展開:金沢集会以後

 筆者は,上で書いたように,工作自体にこだわった紙作りを否定した後,生産活動の大事な特徴である分離と,それを実現するための道具の一つである水酸化ナトリウムの働きを確認するための場として,紙作りを位置づけ直していた。そして,同時に,紙作りに授業で積極的に取り上げるほどの意味はないと見倣すようになっていた。その時点で,教材としての紙作りには興味を失っていたことになるが,ごく最近,千葉の麻柄啓一さんが昔試作されていた『日本の工業』9)を自分なりに改訂するなかで,紙作りに教材としての新たな位置づけを与えられるのではないかと考えるようになった。

 『日本の工業』では,工業の基本図式を「原料→加工→製品」と規定しているが,小学校5年生とのかかわりのなかで,子どもたちが「原料」「加工」「製晶」のどのコトバにもまるでピンと来ていないことがはっきりした。何の対策もとらないのでは,授業で使うコトバがほとんど意味を持たず,結果として子どもたちがまるっきり話に乗ってこないのではないかと危惧した10)。こういう場合,力んでコトバだけを云々してみても,いっこうに埒があかないことは,はっきりしている。子ども共々,泥沼にはまりこむだけである。コトバに対応する事実を子どもたちと共有する必要がある。

 工場見学は時期がずれていて,当てにできない。それではどうするかという検討のなかで,「原料→加工→製品」という図式が鮮明にあてはまり,しかも教師が簡単に演示できる見本として紙作りを利用したらどうか,ということに落ち着いたのである。「原料」は,藁でもエノコログサでもシロツメクサでもよい。「加工」として,水酸化ナトリウムという薬剤を使い,ミキサー,ぷるい,漉き粋という器具を使い,原料に手を加える。結果として紙が「製品」として子どもたちの眼の前に姿を現すのである。この場合は,水酸化ナトリウムの働きに特別注意を向ける必要もない。そして,いったん「植物体→加工→紙」を見せさえしておけば,子どもたちが「自分たちでやってみたい」というときは,「牛乳パック→紙」を体験させるだけでも,目的は達するのではないかということになった。

 実際にそういう手順で授業をした結果,教師演示で「藁→水酸化ナトリウムを使った加工→紙」を一度見た後,「牛乳パック・新聞紙→紙」を体験した子どもたちは,それまでの不活発さが嘘のように,その後の授業の中にのめり込んできたことが確かめられた11)。この場合の紙作りは,「原料→加工→製品」という工程の持つ意味を子どもたちに直観的に納得させるための,言ってみれば“visual aid”の役目を負っており,それ以上のものではない。ちょうど,縄文式土器の機能を納得させるためにドングリをアク抜きし,食べさせる12),というのと同じである。

 結局のところ,筆者は現時点では,紙作りを次の5類型に分類できると考えている。

A.植物の世界を探検する場としての紙作り

 大西さんが迫求されている路線で,大切な点は,100%植物体から分離した繊維だけで「紙らしい紙」を作ること,できるだけ多種多様な野性の植物を原料にすること,子どもが自分でやっても安全で簡単であること,の3点であろうか。

B.「原料→加工→製品」の工程を手軽に検分できる一つの見本としての紙作り

 この場合は,子どもたちがそれぞれの段階をちゃんと目撃でき,仕上がる紙を「紙」と認めてくれればOKということになる。

C.生産活動を支える分離技術の具体例を知るための紙作り

 この場合は,水酸化ナトリウムを使うこと,製紙という場でのその威力や使い方を知ることに焦点が当てられることになる。従って,安全のために子どもたちの活動は制約されざるをえない。

D.実用に耐えられる紙を手に入れるための紙作り

 菊地さんの路線である。仕上がる紙は,しっかりしたものでなければ話にならないし,できれば綺麗なものであるほうが望ましい。出来合いの紙料の援用は,たぷん避けられない。工作自体に意味があるので,子どもが自分でやっても安全であることが大切である。いろいろな植物を原料にすることは,紙の種類を増やすための手立てだから,大西さんの場合と違って,第一義的な重要さを持たない。

E.牛乳パックや新聞紙を使った紙作り

 世間一般でよく行われている「紙料→紙」のタイプ。楽しさや一時の驚きは感じられるが,趣味の世界の話でしかないであろう。

 以上のうち,AとBは,義務学校の正課のための教材になりうると思う。Cにも教材としての意味はあるが,どうしても授業で取り上げなければならない必然性まではない。Dは,任意の課外活動のためなら魅力的な教材としての意味を持ちうるが,正課の教材にはならない。Eもひょっとしたら,任意の課外活動でなら取り上げることができるかもしれない。極地研会員の皆さんは,どう考えられるだろうか。

l)大西秀夫「いたって簡単な“野草紙”作り」極地方式研究会第26回定期研究集会報告,1995年
菊池明さんの報告は,手元に資料が残っていないので実物演展示だったと思う。

2)菊池明「手軽に作るはがき」,知久馬義朗・廣野宏昌「野菜から紙を作ろう」
ともに極地方式研究会第24回定期研究集会(1993年)での報告である。

3)詳しくは,宇野忍編「授業に学び授業を創る教育心理学」中央法規,1995年

4)本間明信・小石川秀一・菅原義一編「科学実験お楽しみ広場」〈新生出版,1992年)に詳しく手順が書かれている。

5)高橋金三郎「化学入門」新生出版,1977年

6)拙稿「紙作りが授業として成立するための条件」人間開発研究,1,27-34,1994年

7)大西秀夫「“楽楽”紙作り法」極地方式研究会第25回定期研究集会報告,1994年

8)大西秀夫「『紙作り』を教材にする」人間開発研究,1,35-40,1994年

9)麻柄さんが,東北大学に提出した修士論文の材料として1976年に試作したテキスト私案。「『日本の工業』で何をわからせるか」と題して,その一部が「わかる授業」の第10集(1977年)に掲載されている。

10)極地方式研究会熊本地区第243〜246回定例学習会(1995年)での検討。

11)この点は,極地方式研究会熊本地区第250〜251回定例学習会〈1995年)で,6時間分の授業記録をもとに確認された。近い将来公表される予定である。

12)拙稿「ドングリを食べることの意味」人間開発研究,1,3-6,1994年


●’95.7.28(極地方式研究会 金沢集会)

−教材をつくる−

いたって簡単な“野草紙”作り

兵庫・桜丘小 大西 秀夫

1.ほんとうに草さえあればいんだ!

2.いくつかのきっかけ

3.紙作りの手順(別紙)

4.試した植物(すべて成功! 半成功もあるが)

(1)台所にあるもの

パイナップル(ジューサー使用) ダイコン(葉・根) 

モヤシ フキ(葉柄) *柏餅(葉) ホウレンソウ(葉)

ラッキョウ(皮) タマネギ トウモロコシ(めしべ)

*夏ミカン(袋の皮) ネギ(葉) *グレープフルーツ(袋の皮)

*サクランポ(柄) ハツカダイコン(根) 生け花用ユリ(花弁)

ニンジン(葉)キャベツ(葉)等々

(2)野外で採集したもの

スイバ(葉) ペチュニア(花弁) サボテン(花弁)

アオミドロ カラー(葉) ジャガイモ(地下茎) 

コモチマンネングサ ミツバ キャベツ(若茎) サルビア(花弁)

ハコベ *ユッカ(花弁) ムラサキカタバミ(花茎・葉柄)

セイタカアワダチソウ タンポポ(葉・花茎) ギシギシ(茎)

ノアザミ イチハツ(枯れた葉と茎) タケ(茎・皮)

デージー(花茎) ヨモギ

シロツメクサ(葉柄) ノゲシ(茎・葉) ヤプカンヅウ(葉)

カンナ(葉) ツユクサ スベリヒユ スギナ チチコグサ

オニユリ(花) サトイモ(葉柄) オオマツヨイグサ(花)

アサガオ(花弁) 等々【*印の植物は,例外的に木】

5.わかったこと

6.紙材料の正解

(1)ノゲシ(葉→ミキサー) (2)コナスビ(石鹸)

(3)タマネギ皮(石鹸) (4)ノアザミ(茎→ミキサー)

(5)タマネギ皮(ミキサー) (6)((3)と同じ)

(7)タマネギ(ぶつ切り→ミキサー)

(8)タマネギ(葉・茎の腐ったもの→ミキサー)

(9)サルビア(花→ミキサー) (10)コモチマンネングサ(ミキサー)

(11)セイヨウタンポポ(葉→ミキサー)

(12)トウモロコシ(メシベ→ミキサー)

(13)ハコベ(ミキサー) (14)ムラサキカタバミ(葉柄→ミキサー)

(15)ホウレンソウ(葉→ミキサー)


いたって簡単な野草紙作り(実践編)

(1)紙にしたい草を採集する。

(2)水洗いしてから,適当な長さに切る。

(3)草をミキサーに入れて粉々にする。

(4)第一次の水洗いをする。

(5)もう一度,繊維をミキサーにかける。

(6)第二次の水洗いをする。

(7)紙を漉く。

(8)紙を乾燥する。


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